
加えて、スラブ下面にはコンクリートの表情がむき出しになっている。住宅を下から仰ぎ見る際、その素材感は平滑な面にはっきりと確認できる。コンクリートは建築材料でもあるが、それ以上にダムや堤防や橋梁といった巨大な土木事業に用いられる材料でもある。そうした人工的風景がわれわれにコンクリートの量塊性や重量感を否応なく刷り込んでいるわけだが、窪田は既成のイメージを思わせぶりに露出しながら、同時に刷り込まれた重量感を極薄のデザインで見事に裏切るのだ。ただ、アルミやマグネシウム合金で実現される薄型ノートPCとは違い、コンクリート・スラブを薄くしようとしても技術的には限界がある。けれども、その宿命的な厚みを前提にするからこそ、仰ぎ見る視点、端部の斜め切りが重要な意味を持つ。こうして奇跡の上演が成立する。ありえないことを目撃したときのインパクトは計り知れない。

窪田の建築は、海外でも高い注目を集めている。その評価の背後に、外国人が日本に差し向ける視線をことさらに意識する必要はないのかもしれないが、「YA-HOUSE」を見るにつけ、奇跡の極薄スラブと、紙文化=日本への憧憬が重なるような気がする。実際、上層階の極薄スラブはコンクリートの重量感を裏切るにとどまらず、もはや一枚の紙のごとく中空に浮遊して見える。外国人建築家にとって、日本の建築(とりわけ数寄屋建築)は紙と木を頼りに、組積造では到底叶えられない圧倒的な軽さと繊細さを体現してきたわけだが、昨今のグローバルなライト・コンストラクションの潮流のなかでは、木をさらに加工し抽象化した紙こそに「日本的なもの」への接続回路があるように思われる。

窪田の手がける建築には、コンクリートの素材感を示すグレー、塗装によるホワイトの2色構成が多い。こうしたモノトーン構成は、現代文化としてはミニマル・アートを、伝統文化としては枯山水や水墨画を連想させるだろう。ただ、この「YA-HOUSE」にあっては、研ぎ澄まされた還元主義の下、グレーとホワイトが一枚の紙の表面と裏面できちんと役割を分担している点が重要だ。それは、外国人に「日本的なるもの」として知られる折り紙作品が、一枚の紙の表面と裏面の色を上手に重ね合わせ、全体の見栄えを整えていることと符合する。折り紙の出来栄えをエッジのキレが左右することは言うまでもない。

住宅の全体構成にも絶妙なコントラストが見て取れる。上層階が水平方向にエッジを効かせ、スラブの浮遊感を強調していたのに対し、エントランスのある下層階は鉛直方向に力強くエッジを効かせ、住宅と大地のつながりを声高に主張しているからだ。3層分の高さを持つ二枚の壁面は、下層階に明らかな空間の方向づけをし、住空間としてプライバシーをしっかり確保するが、最上階に達するや、鉛直の空間制御は一気に無効化される。パノラマ・ウィンドウに囲まれたLDKからは、敷地周辺の緑地から遠く神戸港までが一望できる。傾斜地を刻む下層階の鉛直、斜面地に浮遊する上層階の水平、コンクリート・スラブという同じ言語によりながらもまったく異なる表現が共存する。

いまからおよそ100年前に開始されたヨーロッパ近代建築運動のなかで、鉄筋コンクリート、鉄、ガラスという技術的な後ろ盾を得、建築は世界中どこでも通用する工業生産物となった。ル・コルビュジエが提示したドミノ・システムは、スラブの積層、カーテン・ウォール、パノラマ・ウィンドウ、いまなお建築の姿を規定し続けている。「YA-HOUSE」のコンクリート・スラブは技術的に言えばドミノ・システムの範疇にあるが、それを紙のごとく薄く見せるための処理は実にマニエリスト的である。モダニズムがベースとした工業的前提を建築の成立要件としては真摯に受け止めつつ、建築の魅せ方としてはその制約を完全に逆手に取っているからだ。
工業化の申し子であるモダニズムは、建築家がちょっとでも油断しようものなら、あっという間に作品から表現力を奪ってしまう。21世紀の建築は、一頃懸念された場所性の回復や自然環境への配慮を視野に入れ、果敢に新たな挑戦をしている。要するに、建築が表現力を失わないためのギリギリの闘いを強いられているのだ。コンクリート・スラブの厚みをあえて無効化する窪田の挑戦についても、モダニズムの意義を真摯に受け止める者の宿命的闘いに相違ない。そうした闘いを続ける建築家の張りつめた緊張感が、鋭く尖ったスラブの先端にはある。
横手 義洋
図版提供:窪田建築アトリエ